ひゅうまん京都 寄稿文2006年12月
こよみでいう「小雪」を過ぎてから風邪をひく人、ウイルスに感染した人の便りが多くなりました。私といえば家にいることが多かったこともあり、どちらにも罹らずにいます。それを他所に、かれこれもう2年間の付き合いになる介助者のO君と冬の支度を済ませていました。グッと寒くなる年末までに、という目標をたて「そのCDの、その本の・・・向きが違う」「それ、それ・・・こうして」と誰にも分からないこだわりが明解さを欠いた言葉とともに伝わっていきます。介助関係というのはやはり経験と継続がなければ成り立ちません。あと信頼も。と言いつつ、その関係に慣れちゃまずいなぁ。正しく伝える努力をしなければと反省です(笑)。
10月31日の大フォーラム以降、自立支援法による現場の実態が政治問題化してきました。政府・与党は応益負担による障害者本人の負担をさらに軽減するため、また月額払いから日額払いにかわった施設の収入補填のための補正予算を組むことを決めました。これはこれでよいという理解に立ったうえで、一時的な予算措置で乗り切れると判断している向きがあるということ(自立支援法自体の見直しはしない)や今年から来年にかけた選挙に対するポーズであるとするなら、政治的決着をさせない、という覚悟もいります。
大衆的な合意を取り付けることが必要なのだと感じています。自立支援法の存続も、本当に必要とする人に広がらない福祉サービスも、働く場所がないのに職業訓練ばかりさせられる若者がいることも、劣悪な労働条件におかれた労働者がいることも、お互いの子どもが人間性を否定し合うのも、すべてが連鎖する問題です。ひょっとすると、それまではあたかも当事者だけに直面する問題だと思っていたはずの事柄は、いまこの国の無反省な横暴によってないがしろにされてきたある共通項を示す岐路に立っているんだなぁ。そんなことが頭に浮かんできます。
人間の尊厳が大切にされていません。その人らしさです。その人らしさが殺されていきます。人間なんて、大して違いのない生き方をしているもので、ほんの一握りの人以外の、たいてい多くの人は食べるために働いていて、健康にもちょっと気を使いながら、社会のルールを守りつつ自分以外の人のために何か役に立つことをしたいと願うものです。
生活保護の申請ができずに死んでいく人がいました。働きたくても働く場所がなく、食べるのにも窮するため身体を壊すほんの手前でやっと福祉事務所に行きます。そんな保護課の担当者が放つ言葉は「働きなさい」でした。介護認定が軽いために介護ベッドを取り上げられる高齢者がいました。ベッドがあったから寝たきりにならず、みんなの集まる食卓を囲めて、庭の咲く花に水をさせる人です。それにも関わらず自己負担が払えず断念するのです。正規雇用と同じ仕事をしていても社会保険もままならない非正規雇用の人たちがいました。成果主義のもと希薄な人間関係がさらなるストレスを生みだし、長時間過密労働のため健康を害している人たちが後を立ちません。自分で自分の命を絶つ子どもがいました。学校の評価制がいじめの実態を隠蔽し、学校の選択制で公平な学力保障をおざなりにし、過当な競争現場に仕立て上げたうえでの他殺としか言いようがありません。
人が人として生きることさえ守れない。人が人として再生していく過程も無慈悲に踏みにじる実態を目の当たりにしてきました。しかしそれは、否定しえない実態は実態から作られるということでもあり、その実態こそ記憶しておくことが大事だと思っています。−私たちが歴史上長きにわたって積み上げてきた人間の尊厳−私たちの連綿とした活動は「人間の尊厳を守る」というキーワードをもとにより大きく、より確かに動きだす時期に差し掛かっています。ともに動き出しましょう!
みなさん、本当にお世話になりました。よいお年をお迎えください。