ひゅうまん京都 寄稿文2007年6月
突き抜けるような青空が降り注ぐ光を一段とまばゆくさせるこの頃です。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
先月3日、京都会館で開かれた平和憲法60周年のつどいがありました。憲法記念日に憲法のことを考えようと思い立ってはや数年。ゴールデンウィークであることも災いして(!?)参加せずにいましたが、ようやくか、はたまた、もう後がないかという時期での参加になりました。2000人が会場を埋め尽くすのを見ると、そもそも普段から憲法の良さを話し合っていたり、普段から平和だったりしたら別につどいに参加しないかも知れません。そう思ったりします。ただいずれにしても、それぐらい老若男女にとってみれば最後の砦が決壊するであろう危機意識みたいなものが蔓延していて、つどいの中身もそれに呼号するかのように国民投票法案の採決の行方、憲法改正の本質が鋭く読み解かれ参加した人たちの知を高めてゆきます。
すべての人にとって戦争の歴史は負の遺産ですが、障害者にとって見てもそれは同じでした。とりわけ、戦争に反対した人は非国民のレッテルを張られて蔑んだ目で扱われました。それならば耐えられたかも知れませんが、官憲によって投獄され拷問されるなどの非人間的扱いは底知れぬ苦しみを与えます。当時戦争に反対した障害者がいたのかどうか分かりませんが、銃や刀を持てぬ障害者は役立たずであり、足手まといでもあるから戦争犯罪者として非国民のレッテルを張られたのは想像に難くありません。自民党が憲法改正論議と称して作成したものは新憲法草案でした。一つひとつ条項を見てみると、現行憲法9条2項がバッサリなくなっています。新設された9条2項には自衛軍の保持が明記され、自衛のための戦争を良しとしました。ご存知のように「やっちゃいますよ」と宣言してする戦争はしてはならないのが世界の常識ですから、自民党も動かしようのないものとして9条1項はそのままにしていますが、自分が戦争をするための武器も持っちゃいけないという9条2項をなくしたのです。それは、国連憲章51条が、安保理が平和および安全に必要な措置を取るまでの間は「自分や仲間を守るために戦争するのはやむ得ないよね」と書いているもんですから、自民党はそこに目をつけて自衛軍も武器も持って、イラクでアメリカをさらに協力しこれからは自分も交戦できるように整えたわけです。
また新憲法草案では軍事裁判所を新設することが書かれており、これはいわゆる軍人を裁くための軍法裁判ではなくて、民間人を裁くための裁判所として機能します。いま、イラクで激戦地区に入っているのはアメリカ軍の兵士ですが、その人たちは民間会社から派遣された会社員です。当の純粋な軍人は激戦地区より離れた比較的安全なところに配置されており、日本人がイラクで武装集団に襲われて死亡した事件もアメリカの民間会社から派遣されたガードマンだったためです。だから将来、運送会社や警備会社に就職すると戦地への出兵が約束されたことになります。それにそむくとかけられるのが軍事裁判所での軍法会議というわけです。
自衛のための戦争はしてはならない。そういうことを言ってきたのが憲法であり、平和であることを願う人たちの共通理解だという風に捉えたいと思います。抜き差しならぬ決意が必要ですが、もし、戦争が起こって障害を持っているがために大切な人を見送る場合が出てきたら、僕は一緒に死ぬようにしたいと思います。それが戦争です。