ひゅうまん京都 寄稿文2007年7月

苦い匙

岡田健司


  長らく、ご無沙汰しています。皆さんお変わりないでしょうか。ショッピングセンターのくだものに柿が盛られるようになり、スイカ・ナシ・リンゴと季節の果物を口にしてきましたが、その間にも社会の動きにはいろんなことがありましたね。

  真っ先に浮かぶのは、安倍前総理が突然の辞任表明と体調不良による緊急入院をした出来事があります。動きを止めた人相手に口を動かすのも嫌気がさしますが、端的にいって なぜ最後の最後に強引な政治手法を貫徹しなかったのだろうか、という疑問と、死ななかっただけまし、だという自嘲気味の皮肉を投げかけたくなります。どれだけ強行採決を繰り返し、これが私のすべきことだと明言し、国民の審判でさえ退け、イラクでの給油活動延長を企図していたのに、参院での逆転現象を目の当たりにして、一政党の理解が得られなかったという理由で身を引くのは、あまりにも無責任です。本当に空気が読めないというしかありません。

  それだけではありません。空気が読めないだけならまだいい。そういう人はゴマンといます。政治手法だといってミエをきった結果、多くの人の酸素を窮乏させ、生きる希望を見失わせ、失意のどん底に叩き落し、社会から孤立して死んでいった人がどれだけいますか。北九州市のような、生活保護の申請に行って、水際だかなんだか知らないがその権利を奪い、この社会にあって生活保護の申請が死の水際にあることを本当に理解し、心を砕いた行政がどれだけありますか。全国に広がる高額医療費の問題では、重病化する前に病院にも行けず死んだ人、また相談に乗り切れない病院窓口の憤りをどれだけ知っていますか。政治空白そっちのけで、病院のベッドから謝罪を繰り返したとしても、何の言葉も届きません。もうその人たちはこの世にはいない。その人たちは少なくとも、行政の窓口に足を運び「申請させてください」と言い、病院に赴き「お金がないのです」と告げた。これまでに隣人は「死ぬのはよくない」と言わなかったですか。だから生きようとしていたではないですか。それが許されない社会であるのに、なぜあなたは生きていられるのか。あなたの身に起こっていることと、その他の人たちに起こっていることとは次元が違うことだったのでしょうか。

  イラクへの自衛隊派遣、海外給油活動は即刻やめてください。テロの脅威から市民を守るといって、どれだけ市民が犠牲になっているのですか。遠いとおい海外での出来事だと思うかもしれません。しかし行われていること、私たちに向けられていることは同じです。テロの脅威から市民を守ること、市民に我慢を強いて構造改革を実行すること、その結果待っているのは生活と暮らしの破壊以外なにものでもありません。

  人はその状態にならなければ何も分かりはしない、ふと思ったりもします。諦めにも似た気持ちでいうのではなく、しかし、例えば、もしかしたらその人が障害を持ってはじめて、障害とはいったい何かということに思い至るかもしれません。私はそれでいいと思うのです。よく分かりもしないくせに支援を口にする人、障害者を前にして緊張感を持った対応をしたりする人は、まさにそういったことの証左だと考えるし、私としては何もうれしくはありませんが、それをよいとする人もいる。ただし、人への大きなお世話は、自分への大きなお世話であり、自分が助かってもよいのなら、人も助かってよいはずだ、と考える衡平感はかならずいるでしょう。新首相には、ここまで生きにくい世の中の、そのつまらない衡平な感覚を取り戻せるかどうかがポイントになると進言しておきましょうか。