ひゅうまん京都 寄稿文2007年12月

「つよがり」

岡田健司


今年の僕には新しい道がしかれた。それが僕の選択であろうが、そうでなかろうがそんなことはいまさらどうでも良いことのように思う。考えられなかったかもしれないが、よくよく考えれば考えれたことでもある。

  そう、だから新しい道が見えたときに決めたことがあった。そのひとつは、CILで働く僕のとても大切な仲間への協力にこだわること。名古屋、奈良、兵庫にあるCILでそれができたことはとてもありがたかった。もうひとつは、これまでしてきた応益負担に反対する実行委員会の活動を続けること。ただ、あらためて設定した目標は「そこにいる」というだけでも十分で、「何かをしなければならない」というこだわりは捨てること。これも何度か会議に参加し集会もやった。いろんな場所で発言する機会を得られたが、さいわいにもメンバーの厚意があってのことである。

  一人暮らしをする家で生活する時間がとても長くなった。夏場の西日がすごくて、真っ白だったDVDのパッケージがこんがり小麦色に日焼けしていたのはおどろいた。クーラーが効かないのも発見だったし、遮光カーテンが気持ちを静めるのにも有効だとは思いもしなかった。引きこもりをしている人の部屋は暗い。たぶん気持ちが静まるだろう。それならそれでいいと思う。

  よくものを考えた。人生について。死について。運命について。愛について。本やテレビや雑誌から学びとったものとは違うものが目の前にあるから、ささやかだけど貴重な現実を学びおとすことが必要だった。分かりきれないのでそれは続く。ある親密な関係もそれを気づかせて、その気づきは日に日に体中を突き刺しながら、僕自身をしばりあげていったのかもしれない。障害者であることのしばりは十分に苦しい。どのようにしてそのしばりを解いていくかの勉強はしてきた。それがあるからこの社会に向き合える。しかしもうひとつあった。男であるとことのしばりだ。DVはご存知だと思う。ちょっと前までそれは「夫婦間の暴力」という狭いものでしかなかったが、いま「親密な関係性の中に起こる力による支配」のことだと理解されつつある。それは夫婦だけにではなく、恋人同士、また職場内のパワハラ・モラハラ・セクハラといったものの中で起こる。DVに起因するのは社会の中にある規範や価値観といったその文化によって作り上げられたジェンダーバイアス(性役割)だとされ、いわゆる男らしさや女らしさが社会構造の土台にしかれて、私たちの態度の中に多かれ少なかれ、直接的に表れもするし、人には分からない形で表れもする。僕の中の内圧と外圧は「障害」からくるものばかりではない。

  深夜近くのニュースは残酷にも、その命が終わりを告げようとしているジャズ歌手の言葉を流していたように思う。彼女はテレビの前でたしかこう言った。−「いま生きている人たちが持て余す時間こそ、私が一番欲しい時間です」−気丈にも、同じ病気で苦しんでいる人が少しでも楽になれるかもしれないと、撮影を許可し、放映されることを望み、そして死んでいった。

  ぼくは、彼女がそのように表現した他人の持て余す時間が、他人の持て余しえなかった時間の余白になればいいと思う。それはいまの僕にできる唯一の時間の使い方だ。