ひゅうまん京都 寄稿文2008年1月
明けましておめでとうございます。今年もどうか一つよろしくお願いします。
さて、一年の計は元旦にありと申します。よからぬ計らいは御免こうむりたいものです。しかし、そっとして隙をつく御人たちはおりまして、今年に入って早々の3日、自宅の玄関前に置いている電動車椅子が持ち去られるという事件が発生。ときは10時半を回ってすこし、夕刻の4時半までのざっと6時間ほどでなされた行であります。昨年、西日本で鉄の盗難事件が頻発でしたが、まさにそこにある危機。中京区界隈に忍び寄っているとのこと。自失呆然ならぬ自室望斬。もう帰ってきません。たぶん次の日、三年苦楽をともにしたその彼は、鉄の塊と化して急成長を遂げている隣国まで流れ着くのでしょうか。
そんなことがあり、今年の抱負も何処ぞにか飛んでしまいそうです。けれども、人生いよいよチャレンジング。さてどれが実り大きなものとなりますことやら。
一つ目。昨年はエコなことに気を配るようになりました。きっかけはアル・ゴアさんが呼びかけた音楽ショウ、小林武さん桜井和寿さんが作るap bank(環境プロジェクトに融資を行う非営利組織)のフェスなど、さまざまな音楽シーンで環境に対する取り組みが目立ったことがあります。音楽で何ができるか、別に何もできないんじゃないか、という葛藤を抱えつつも、お箸やコップの持ち込みでフェス会場のゴミを減らしたりすることが新鮮に映ったのは驚きでした。それからというもの、自宅の電源コードはスイッチ付きにしてマメに消すとか、無分別だったゴミの仕分けをキッチリするとか、生協さんのエコバックでレジ袋をもらわないとか。リサイクルというものにも興味が移って、ペットボトルがリサイクルされて購買者に返ってくる率はごくごく僅かであるとか、ドイツはリサイクルじゃなくてリユース(お店に容器を返すと洗浄して売り場に戻る)なのだとか、取り組んだことがそのような結果として実を結ぶのかが感心として高くなりました。
二つ目。より良い人間関係を結ぶためにできることを見つめています。障害をもつ喜びとは、シンパシー(同情)を共有し合うのではなくエンパシー(共感)で繋がっていけること。お互いを尊重し合い対等な関係性を築く大事なものです。介助を必要とする人には、介助にあたる人との関係性は尽きない課題です。本人が必要とする介助は本人が一番良く知っている。との稀有な前提にたてば単純で明快な答えが存在するかのようにも思います。しかしながら、介助にあたる人も生活の主体者として生活の所作が出来上がってもいて、厳しさを愛情の裏返しとしないならば、それさえも尊重することが必要ですし、介助にあたる人にもそれは同じように必要なのです。有機的で創造的な行為の連続。介助関係は人間関係です。
三つ目。団体設立の準備を進めています。昨年の夏場あたりからプロジェクトを始動させていて、桜が舞い散る頃には新たな門出にしたいと思っています。弧を描く光−自立生活センターアーク・スペクトラムと名付けたこの団体は、障害者の権利擁護の活動をします。障害を持つ仲間が話を聞きあうピア・カウンセリングとか、自立した日常生活を送るノウハウを伝える自立生活プログラムとか、自分で探して自分で管理する仕組みの介助派遣とか、自立に関することならやっていきます。なぜこれらが権利の擁護なのか。気持ちの保障をすること。健常者中心に出来上がった生活の所作を障害者が使い勝手の良いように変えていくこと。人の手を借りて自分のしたいことを実現すること。これらは立派な権利だからです。社会の中心に据えられるべき人たちがいます。その人たちに光が当たるまで僕はこの社会で一緒に実現させていきます。
大切な相棒を盗られて意気消沈する僕は、映画を見ました。第九を完成させ指揮するベートーヴェンと写譜師の一身な思いやりのある物語。作曲家として集大成を飾ったあの大曲は人と自然をこよなく愛したからこそ出来上がったものでしょう。人と自然をこよなく愛す−この夢が実現しますように。