ひゅうまん京都 寄稿文2008年2月

座して開眼とし、その行為にせよ

岡田健司


  僕は、自宅のドアを開けるとき何事も起こらずにいて欲しいと無意識に思っている。だから、意識的に気を抜かないということを繰り返してきた。「運命の扉はこうして叩かれる」と述べたらしい楽聖の言葉は、僕が自宅の扉を開けるときに暗示するそれである。

  この文章を書く2日前、その日はやはり寒く、壬生寺では節分会が行われ、道端には軒を連ねる屋台の数々がその界隈を賑やかにしていた。いつもより心が華やぐ光景であったが、四条大宮でバスに乗るという行為がそれを一転させる。四条大宮から京都駅行き、26番。この路線は北の方へは宇多野病院などに行くので、案外車いすの人も利用するはずなのだ。しかし、その日の運転手はどうも車いすで利用する乗客に対応することが苦手なようだった。他の乗客も多い。スロープで乗車すると、それを元に戻しながら大声で「どちらまで行かれますか」と連呼する。それには答えず「この降車ボタンを押します」と答えた。それに対し「行き先を行ってもらわないと停車位置に止められません」とか「お客さんは下りることができません」とか、プロの運転手としてはナンセンスで、かつ相手への配慮も何もない、無神経極まりない対応をしたのだ。そんなときの僕は、全身に血の気がザワっと沸き立ち、その慟哭は髪の毛一本一本を先鋭にさせていくのであるが、このときそこでは争わなかった。僕は「このボタンを押します」そう繰り返した。このやり取りを見た80歳を過ぎた老人が「運転手が困っている。言ったらどうだ。介助者のあんたも行き先を知ってるだろう。ちゃんと言いなさい」という。それに対してこう僕は返したのだ。「あなたがバスに乗るとき運転手に行き先を告げて乗りますか」と。それに対して老人は無言で僕を睨みつけるだけであった。

  車いすでバスを利用するときの手順はこうである。すべてのバスは乗れない。低昇車バスでの利用である。あらかじめ主要バス停の車庫に乗車1時間程前に電話をし、停車時間を確認する。それからの移動である。バス停では、運転席の目線は高いので、バス停に止まる手前で介助者に合図を出すよう指示する。それに気づくと運転手は心構えができる。それで心構えができない運転手もいる。スロープの設置が不慣れか、そもそも障害者を毛嫌いしているか、まあそんなところだ。とりあえず対応で分かる。そしてスロープを設置した上で乗り込むのだが、車いす用のオープン席は他の乗客が座していれば移動してもらえるよう運転手が促す。その座席を上げれば車いす利用者用の押しボタンが現れる。そのボタンは他の乗客が降車する際に押したとしても、車いす利用者が押しさえすれば運転手はオレンジ色の点灯で知ることができるものだ。本人が押せない場合でも介助者が押すことで足りる。

  車いすで利用する障害者はバスに乗るというだけで、これだけのことを想定して動くのだ。誰でもが当たり前に利用できるという改善の余地を残しながら、車いす利用者がバスに乗れるようにしているということを忘れ、限られた配慮のなかで対応しているという認識も持たずに、そうした対応に終始するのは個人の資質なのか。京都市交通局の体質なのか。

  JRでもそのようなことは起きる。それは先月のことである。JR丹波口で、介助者が切符の手配をしに行ったとき2回とも窓口対応で追い返されている。1回目の理由は「切符の購入は支払いを済ませて」しかできないといわれ、2回目の理由は「カードの支払いは1回払い」なので分割は扱えません、といって追い返している。車いすで新幹線を利用するときの手順はこうである。例えば、車いす用オープン席は指定席であり、予約のために窓口対応に1時間は待つ。この1時間は購入待ちの状態で、この段階で支払いをした経験はこれまでに一度としてない。しかも、窓口の職員はそれを言ったこともない。まずこれが一点。そして、支払いの際カードを利用するといえば1回払いしかできないのだから、分割はできない、と言えば事足りる。これが二点。それを言わずに購入見送りにさせているのは、職務怠慢の何ものでもない。お客様相談センターに即電話をした。その後JR丹波口の職員から電話があった。介助者とのやりとりに行き違いがあり、申し訳なく思うと述べた。僕はそのように理解するのは正しくないといった。介助者は本人に代わってやっていることであると指摘し、だからこそ切符の手配に際して必要な事項は紙に記載して渡してある。行き違うはずもない。切符の手配に際して、日時だとか、のぞみ何号だとか、領収書のことだとか、連絡先のことだとか、すべて介助者に手渡した紙切れに書いてあり、介助者は「分からないことがあったら、本人に確認を取ってください」と指示どおり伝えたはずだ。介助者が本人の代わりとしてできる範囲のことを誠実に行ったのであり、それを軽んじることは許さない。

  障害者の人としての尊厳が自宅の扉を叩くことで踏みにじられるのならば、それは自宅の中でもありうる。あなたはその人の尊厳のなかに何を見いだすのか。2月19日(火)18時30分より京都テルサで「福祉現場で働くことを考える集い」が行われます。あいにく不参加です。