南区制50周年記念シンポジウム2005年10月24日
○自立生活プログラム(ILP)の目的
自立生活プログラムは、地域の中で生きる障害者が自立生活に関するノウハウを伝えてゆくプログラムです。
○自立生活プログラムの意義
1. 当事者性
ロールモデルであること
役割の互換性(聞いてもらうだけでなく、聞く立場に立つこと)
専門家に評価させないと決めること
2. 再評価という方向性
・すべての事柄に新しい評価を与えていく作業
自己評価を高める=エンパワーメント
あるがままの自分を受け入れること
(障害の受容だけにとどまらない)
・他者との関係性をつくる=人生のリーダーシップを誰にも譲らない
自分も他者も大切にすること
・権利意識=自分の中に根付いている常識、抑圧に気づき、
自分の中で変革を起こしていくこと
そして、外に働きかけていくこと(内圧と外圧)
○生きていてよい、と思ったあとの課題について
○障害者を支える人がいて、それを支える人もいる、という社会をつくる
〇はじめに
みなさんこんにちは。
南区制50周年にあたって、その記念すべきシンポジウムが、地域福祉推進のためのものとして「障害者の地域生活」をテーマとされたこと、そして当事者として発言の機会を得たことを、心よりうれしく思い感謝します。
私が所属します日本自立生活センターは、油ノ小路をさがったところにあります。この団体は、当事者団体として、どんなに重い障害を持っていても、自らが選んだ地域社会の中で、社会の支援を得ながら生きていく、と、決めた障害者の自立をサポートするという理念をもった自立生活センター、これを略してCILと言いますが、現在全国に133ある団体の一つです。
CILの活動は、障害という同じ背景を持つ人が、これまで生きてきた体験や経験を伝えることを基本としています。例えば、人間関係、制度学習、金銭管理、居住環境づくり、食事づくりなど一人暮らしに必要な知識と体験を得るために、手がかりとなるようなノウハウをパッケージにした自立生活プログラム、介助を必要とする人も介助を提供する人も会員登録してもらい、それぞれの条件にあったサービスの提供を一緒に立てていく介助派遣、対等な立場で時間を分け合いながら役割を交代させて話を聞きあうピア・カウンセリング、住宅あっせん、などがあります。
ここでは、障害を持って地域社会の中で生きていくための課題を、経験し体験している者として、またそれを伝える立場にいる者として、自立生活プログラムの中からお話していきたいと思います。
〇自立生活プログラムの意義と内容
障害者が親元や施設、病院からでて一人で暮らすといった場合、住宅・所得保障・介助という3つの要素が大きな課題としてあります。自立生活プログラムでは、そういった課題をあるテーマに沿ってプログラム化し提供する場合もあれば、ときには一つの課題をプログラム全編のテーマとして提供します。この他に、自立生活プログラムがあつかう内容には自己認知、健康管理と緊急事態、介助について、家族関係、金銭管理、居住、献立と買物と調理、性について、社交と情報、など生活全般にわたるものであり、これを参加者5人〜8人のグループを対象に、1回3時間〜4時間、1ヶ月〜2ヶ月を1クールとして行います。
とくにこれまで、自分の障害に対して否定的な見方を余儀なくされてきた障害者にとっては、いま置かれている状況以外の生活を考える力が奪われています。そういった点で障害が重度なのに一人暮らしができるのかとか、人の手を借りて生活するのは良いのだろうかとか、そうした思いや悩みを抱えている人がたくさんいます。またそうやって押しとどめられた意識はこの社会を動かしていく動機にはなってはいません。そういった点でこんな障害を持っていたら働けないんだとか、車椅子で暮らせる家ってあるのかとか、根本的にその人自身の本質には関わらない問題を自分の問題だと認識してあきらめている人がたくさんいます。その際に、重い障害を持ちながら楽しく暮らす仲間がいることは、自立生活の準備として、これまでの生活が一変するほどの衝撃があるのです。
住宅であれば、自分の住まいの具体的なイメージをいかに作っていくか、がここでの課題になりますが、施設や病院にいた人にとっては殺風景な部屋しか知りません。自分がどんな家でどんな部屋に住みたいかなど考えたことがなかった場合、その要求は混乱していて把握することは困難です。それが家賃に関することであったり、周囲の環境に関することであったり、交通の便に関することであったりと、やはり住宅といってもさまざまです。
私たちのプログラムは、あくまでも人の生きかたにこれが正しいというものはないので、決して自分の価値観を押し付けず、相手の立場にたって考えるように進めていこうとします。私たちにできることは、それぞれの参加者がそれぞれの努力で自己の内面の改革をはかっていこうとする傍らにいて、それを力づけはげまし、ときにはモデルとしてアドバイスするといった役割であって、先生対生徒といった一方的な関係をつくるものではないと考えています。それぞれの参加者が、障害を持つという背景にある、社会・家族・教師が決めた「障害者はこうあるべき」という抑圧と規制から自由になるためのプログラムだからです。
先ほどの例で言えば、自分のこれからの住まいのイメージを具体化する前に、いま住んでいる所の暮らしを、それは施設や病院の部屋での暮らしですが、参加者が再評価することから始めることになるでしょう。また他の参加者がイメージする住まいの話を聞いて、それが良いと思うかも知れません。このプログラムはすでに始めている自立生活者も、自立生活希望者とともに参加するので、よくあることなのです。こうして混乱していた状況は整理されていき、そうして次第に自立生活への動機が再確認されていきます。
私も一年前に親元を離れ一人暮らしを始めました。夜間に人工呼吸器を装着しながらの生活です。医師や呼吸器のメーカーからは反対を受け、生命維持装置を扱うメーカーでさえレンタルさせることはできないとまで言われましたが、こうして何事もなくみなさんの前でお話しすることができています。私も一人暮らしを始める前に、自立生活プログラムを受けていて、その当時のことを思い出すのですが、重度の障害を持つ人が住む家ってやっぱり車いす対応で段差もなく生活しやすい広々とした空間しかないんだろう、と考えていました。しかし、重度障害者のお宅訪問で向かった先は、民間のアパートで2DKでした。エレベータで玄関に向かうと、玄関には段差が、キッチンや風呂場には改造がほどこしてあるんだろうなと踏んでいたのですが、そのままの形で使われています。驚きでした。おかしな話ですが、これなら僕にも一人暮らしができると考えたものです。障害者でさえ、在宅や施設や病院とは違うところで生活する場合それなりの環境がいると思い込んでいるのですから、実際、障害者の生活を知らない人はもっと驚くことだろうと思うのです。言うまでもなく、この世の中に障害者に合うものは何一つありません。まず何かを作るとき、社会の仕組みの基盤には位置づいていません。いまでは障害者だけじゃなく、半分より多くの人でさえ、その仕組みに据えられてはいないのかもしれません。だからこそ、こういうプログラムがいるのですが、しかし、こう考えればいい訳です。この世の中にある仕組みを自分の好きなように変えていく、2DKのアパートを使い勝手の良いように変えていけばいいんだ、と。それが僕にとってはこの社会で生きていけると実感した瞬間だったのです。
その重度障害者は、他人の手を借りて、それを実践していたのです。
〇生きていてよい、と思ったあとの課題について
私たちは毎日の生活を送るために他人の手を借りなければ生活できない訳で、ごはんを食べる、トイレに行く、風呂に入る、布団に寝る、こういったことは手足が動かないのだからすることができません。それを他人の手足を使ってやります。現行の支援費制度はこれを実現していますが、他人の手足を使うことには当然お金がかかります。そしてこの間のことですが、人並みの生活が30万であれば障害者が生活するのに介助費用だけで30万いるなんておかしいじゃないかと言われ、ごっちゃにされることが多いのです。現在、支給決定を受けている障害者は18%が生活保護世帯、77%は収入が年金だけの世帯で、制度を使っている障害者の95%は低所得者層です。別に贅沢をしている訳ではないのですが、同じ生活をするのにたまたまお金が余計にいるんであって、別に上限が無いわけじゃなく24時間という時間のなかで必要な量だけの介助を得ているのですが、「使いすぎ」や「不公平」を見直す必要があるのではないか、と、疑問がだされています。
自分に今まで与えられていた否定的な規定をはね返して、自分に自信を持ち、この自信を介して、与えられた状況への挑戦という力をつけた障害者は、みなさんと同じ地域社会の中で、人並みの生活を送るための権利擁護を余儀なくされています。この世の中の半分より多くの人がそこそこやれていると見ていて、これからもそこそこやれていけるだろうと見ている面があって、とすれば「弱者」のための施策は自分たちのことではなく、半分より多くの人たちのことではなくて、少数の人たちのための施策だと捉えられれば、けっきょく「やさしい政治」「切り捨てない」のうたい文句は、それは自分たちの持ち出しを意味すると受け取られます。人はそれは嫌だという事態が進んでいます。
〇障害者を支える人がいて、それを支える人もいる、という社会をつくる
日本の障害者福祉が進める理念がノーマライゼーションにあるとすると、どんなに重い障害を持っていても、自らが選んだ地域社会で生きる、ということであり、例えば、介助との関係でいえば誰からどのように介助を得るかは、介助者との関係の中で障害者本人が決める、ということです。誰がこれを可能とする義務を負うのか。つまり介助に必要なお金は誰が負担するのか、というお話を最後にしてみたいと思います。
介助を支える仕組みには@自己責任A家族B自発的行為(ボランティア)C公的介助保障があって、みなさんはどの介助を受けて、どの介助をされているのでしょうか。ご存知かもしれませんが、障害者側の主張はこれまで、介助を支える仕組みは公的介助保障による有償介助であるべきだ、と言ってきました。それは第一に、有料化しないと必要な「量」を調達することができない。有償の介助は供給の不足、不安定性を解消します。第二に、契約関係のもとに置くことで、時に頼りなくときに独善的な相手の意思に依存することなく、自分の要求をはっきり主張し、「質」を確保しようとする意図があります。対価に見合っただけの責任ある仕事を行わせ、感情的な水準での問題、人間関係の問題を解決するために、そう求めてきました。
その他の仕組みを否定するわけではなくて、それで成り立っているから否定はできないわけです。しかし、その仕組みが義務を負う理由にもならないと思うのです。それではなぜ有償なのか、ということを考える必要があります。まず、ここでいう有償とは、税金等の再配分としてその資源が提供されることを想定しています。だから有償とは自己負担のことではありません。それは逆に、負担できる人全てに負担を義務づけ、強制することを意味します。介助を支える仕組みに、社会の全ての人が参加することは望めないし、それを強制するわけにもいかないなら、実際に可能なのは、税金等のかたちで負担させることです。介助する人がいて、その人をさらに別の人達が支える、実際には全ての人が介助に関わらないとしても、全ての人が権利を擁護する義務を果たす。だからそこに負担の一方的な押し付けはないと考えている訳です。
いま、どんなに重い障害を持っていても、自らが選んだ地域社会の中で、社会の支援を得ながら生きていく、と決めた障害者と、半分より多くの人たちとの間の関係は、多数派を取りつけて、けっきょくは多数の人にとってよくない状態をつくってしまう恐れのある政治によって分断させられようとしています。