「医師・患者・障害のある人たち・・・市民と国会議員との対話」2005年11月5日  京都会館

岡田健司


みなさん、こんにちは。

  私は障害を持ちながら京都に在住する一市民として、国会議員の皆さんにお話させていただきます。この間、国会に提出され、衆参での採決を受けた障害者自立支援法が障害者を、その人たちの支援者を、苦しめ、不安にさせ、悲壮なまでの行動に立たせています。まずは、この法律がどのような性格を持つものなのか、という認識と、また障害者や支援者からあがった反対の声をどのように捉えているのかを、あわせてお答えいただきたいと思います。

  この法律が支援費制度のもとで増加した費用の抑制を目的としていることは確かです。

  そのために、利用者本人に自己負担を求め、審査をして使いすぎをなくし、公平性を保とうとしています。それは、あたかも入りたい銭湯でもないのに入りたくない人たちだけで銭湯を経営させておいて、これがサービスである、とするかのようなもので、どうしてそれを障害者が人になるための義務だと言えるのか、と私は指摘してみたいのです。

  立命館大学の立岩真也さんの指摘もあるように、たしかに、この世の中の半分より多くの人がそこそこやれていると見ていて、これからもそこそこやれていけるだろうと見ている面があって、とすれば「弱者」のための施策は自分たちのことではなく、半分より多くの人たちのことではなくて、少数の人たちのための施策だと捉えられれば、けっきょくそれは自分たちの持ち出しを意味すると受け取られます。人はそれを嫌だという事態が進んでいます。だからこそ、公務員であったり、あるいは郵便局員であったり、そういう人たちが「既得権」を有しているように見えるから「改革」に賛成します。たんに口裏あわせじゃなくて、例えば労働条件が厳しく不安定な未組織の労働者から見れば、それは事実であって、自分たちは真ん中より受け取りは少ないかもしれないのだが、それはそれとしてがんばっている。であるのに、楽をしている人、少なくともそう見える人がいる。そうして、問題にされ指弾されるのは少数の人たちであり、半分より多くの人は問題にする側に、という構図はこの社会において仕組まれたものである、とはっきり言い切ったほうが良いのではないか。私もそのように考えますがいかがでしょうか。

  障害者から利用料を取ってみてもタカが知れているという試算もあって制度維持になんら影響も与えないとなると、障害者も人としての権利に見合う義務をはたせという話はこの場面では想定されてはいません。定率負担などというのは仕組まれた痛み分けに過ぎないのであって、それを隠れ蓑にして少数の人だけではなくて、多数の人にとってよくない福祉が築かれようとしていると見るのはうがち過ぎですか。それでもなお、この自立支援法が人間に値する生活を営むことを保障するものであるといえますか。この国では、人と人とが、最大限にお互いの生活を尊重し合えるのですか。