ヘルパー研修講演2007年2月13日 NPO法人なごみ
「障害者自立支援法と、介助の関係」
1.これまでの動き
2.障害者自立支援法のポイント
3.自らが決めるを支える、それを支えるのは誰か?
4.望んだこと、望むこと
1.これまでの動き
昨年10月12日、厚生労働省が発表した「今後の障害保健福祉施策について」−改革のグランドデザイン(案)−は、サービスを自己負担にすれば(自己といっても家族も含まれるのだが)、その分だけ使いすぎが減るだろう。それを審査すれば使いすぎをなくせるし公平性も保つことができるだろう、という。それを受けた障害者自立支援法にはこのことが書かれてあるし、ごく簡単に言ってしまえばこのようなことが昨年からずっと続いている。けれども、2000年の介護保険が導入されたあの当時からこんなことが起こるのは分かっていたし、それを先延ばしにしてきたのは当のお役人である。
2000年「介護保険」が導入されるとき、全ての国民が利用できる、を前提にした保険料徴収による福祉サービスのあり方は、雇用主負担を強いられる財界の猛反発を受け断念している。2003年「支援費制度」が実施される直前「上限問題」が言われた。支援費は誰がどれだけ使うかという基準がないから、サービス供給の「上限」を設定したものだった。しかしこれも反対によって実現しなかった。そして2004年「支援費と介護保険」の統合である。保険料徴収年齢を40歳から0歳に引き下げ、サービス利用を65歳から20歳とする、介護保険に支援費を入れて、介護保険を維持しながら支援費の予算の増大を抑えようとする意図(言い換えればお金の問題)が、この間の動きを端的に表している。
この統合問題に関して、障害者側からの主張は、いまの介護保険は必要な介助が得られるサービスじゃない、のだと言うこと。在宅で3時間そこそこのサービスに上乗せして必要なサービスを得ればいいじゃないか、というならばどのようなものなのかを明らかにしなさい。分からないものを飲めと言うことはできないと。これが第一点。毎日の生活を送るために他人の手を借りなければ生活できないわけです。ごはんを食べる、トイレに行く、風呂に入る、布団に寝る、こういったことはみんなやっているだろうけど、手足が動かないのだからすることができない。それを他人の手足を使ってやる、ということ。けれど、これは障害者だけではなくて高齢者も同じようにそうなわけです。それだったら、障害者も高齢者も同じように使えるサービスを作ったらいい。しかし介護保険のようなサービスじゃ使えません。ある種原則的なことも言ってきたわけです。それが第2点。そしてこれまでの動きがお金の問題であったように、無い無いとあなたはいうけれども、どういう風にお金がないのかを言ってみなさい、と。全国どこに住んでいたって、大体障害に応じて必要な介助が得られる、それは当然のことなんだけど、お金が無いという主張はそれをうやむやにする。そんな都合のいい話の一つが地方分権であるわけです。福祉サービスの担い手が地方に移って、地方を水準とした、てんでばらばらなサービスであってよいわけはないのですが、それがどうもなされようとしていた。これが第3点。市民や納税者の立場からすれば「使いすぎ」は「不公平」なわけです。30万の生活があって、障害者が生活するのに介助費用に30万いるなんておかしいじゃないか、と言う人がいる。やっぱりわけのわからん話であるから、そうじゃないのだということを言ってきた。これが第4点。別に贅沢をしているわけじゃなくて、同じ生活をするのにたまたまお金が余計にいるのだと。別に上限が無いわけじゃなくて、あなたたちと同じように24時間という時間のなかで必要な量だけの介助を得ているわけです。あなたがいう「使いすぎ」や「不公平」を見直すのはお金を減らすということじゃなくて、ちゃんとした基準と示すことによって可能なのだと言うこともいってきたわけです。つまりはアカウンタビリティ。
こういったことを繰り返し述べてきた昨年末。それとは違った利害関係を持つ人たちの声もあって統合問題は見送りになった。しかし今国会で審議される障害者自立支援法は2009年度をめどに支援費が介護保険にすりかわるようセットされた時限装置である。
2.障害者自立支援法のポイント
@使いすぎを見分ける−障害程度区分と市町村(認定)審査会−
障害の重さによって区分をつくり、どの区分に入るのかを判定する尺度をつくるというもの。これまで全国的な尺度はなかった。噂では障害者の区分は8〜9、尺度はほとんど介護保険と同じものを使う。(一次判定)。この障害程度区分にもとづいて、市役所職員以外の専門家で構成する「市町村審査会」(委員は4〜5人)が審査して支給量を決めるというもの(二次判定)。
A自己負担させる−応益負担−
応益負担とは、その人の所得に関係なく使った分だけ確実に払ってもらいますよというもの。自分が受けた益に応じて払う仕組み。介護保険がこの仕組みであり、10%の負担率である。たとえば10万円のサービスを使ったら1万円払わなければならない。
負担額の上限
生活保護世帯 負担なし
市町村民税非課税T 15,000円/月(年収80万円未満)
2級年金の人はここです
市町村民税非課税U 24,600円/月(年収80〜300万円)
1級年金の人はここです
一般 40,200円/月 (年収300万円以上くらい)
この表は世帯で見るので、障害者本人の収入がなくても、同居している人に収入があれば負担しなければならない(たいていは40,200円になる)。扶養義務者の負担は廃止すると書いてある一方で、生計を一つにする家族の負担能力を勘案するとも書いてある。12月の社保審・障害者部会で、生活保護基準より低い収入の人(市町村民税非課税TやUの人など)で、貯金が無くて払えない人は、負担金0円(個別減免)にするということが示された。しかし、この場合は生活保護への移行を防ぐ措置であり、預貯金などがある場合、減免措置はされない。
B地方に任せる−義務的経費と裁量的経費−
支援費のホームヘルプは裁量的経費(国庫補助金)だった。裁量的経費とは国は補助することができるというもので、予算を超えてしまったときは、超えた分は国は負担しない。同じ支援費でも施設サービスは義務的経費なので、予算を超えたときも補正予算を組むなどして国は絶対払わなければならない。昨年は128億、今年は250億以上の予算不足となっているが、予算を超えているのはほとんどがホームヘルプである。これを義務的経費にして、予算を超える利用があった時も国が確実にお金をだすという仕組みをつくることは、障害者団体の悲願であった。だから、一見すると「義務的経費にする」と書かれているので良くなるように見える。しかし、これにはからくりがあるのである。義務的経費にしてもそのなかで上限をつくり、上限を超えた市町村には超えた分はお金をださないのである。
その上限金額は下記のような計算で出される
障害程度区分1 → 000円(※1)× 程度区分1の障害者の数= 00,000円
(※1 現在は一般障害者 月25時間 69,370円)
障害程度区分2 → 0,000円(※2)× 程度区分2の障害者の数= 00,000円
(※2現在は視覚障害者等 月50時間 107,620円)
障害程度区分3 → 0,000円(※3)× 程度区分3の障害者の数= 00,000円
(※3現在は全身性障害者 月125時間 216,940円)
この3つの合計金額が国の負担金の上限
市内に在住する障害者を、障害の程度によって3つに分ける。それぞれの区分ごとに決まっている標準的な費用額(※1〜3)をかけて、合計した金額が国が負担する上限となる。この金額より低ければ、国は一定の割合でお金を出すが、この上限を超えた分に関しては、国はお金をださない。
(既出:グランドデザインとその問題点より)
3. 自らが決めるを支える、それを支えるのは誰か?
障害者自立支援法を、介助者のみなさんに向けて言うべきことは「介助を支える仕組み」を考えてみる、ことだとも思うんです。
日本の障害者福祉が進める理念がノーマライゼーションにあるとすると、どんなに重い障害を持っていても、自らが選んだ地域社会で生きる、ということであり、介助との関係でいえば誰からどのように介助を得るかは、介助者との関係の中で自分が決める、ということです。誰がこれを可能とする義務を負うのか。つまり介助に必要なお金は誰が負担するのか。
介助を支える仕組みには@自己責任A家族B自発的行為(ボランティア)C公的介助保障があって、みなさんは公的介助保障の有償介助をしているわけです。障害者側の主張はこれまで、介助を支える仕組みは公的介助保障による有償介助であるべきだ、と言ってきました。それは第一に、有料化しないと必要な「量」を調達することができない。有償の介助は供給の不足、不安定性を解消します。第二に、契約関係のもとに置くことで、時に頼りなくときに独善的な相手の意思に依存することなく、自分の要求をはっきり主張し、「質」を確保しようとする意図があります。対価に見合っただけの責任ある仕事を行わせ、感情的な水準での問題、人間関係の問題を解決するために、そう求めてきました。
その他の仕組みを否定するわけではなくて、それで成り立っているから否定はできないわけです。しかし、その仕組みが義務を負う理由にもならない。だったらなぜ有償なのかを考えなくちゃならない。まず、ここでいう有償とは、税金等の再配分としてその資源が提供されることを想定しています。だから有償とは自己負担のことではない。それは逆に、負担できる人全てに負担を義務づけ、強制することを意味します。介助を支える仕組みに、社会の全ての人が参加することは望めないし、それを強制するわけにもいかないなら、実際に可能なのは、税金等のかたちで負担させることです。介助する人がいて、その人をさらに別の人達が支える、実際には全ての人が介助に関わらないとしても、全ての人が権利を擁護する義務を果たす。だからそこに負担の一方的な押し付けはない。
今度の法律では、移動介助の単価の切り下げ(というよりそもそもサービス提供ができなくなる)、きわめて重度の障害者に対する包括払いなどによって、介助をする環境は激的に後退します。自らが決めるを支える、それを支えないのであれば、介助の社会化とは名ばかりです。
4. 望んだこと、望むこと
事態は変わっていないわけです。支援費が介護保険に吸収される時期は目の前に来ていますから、われわれが言ってきたこと/言っていくべきこと、をもう一度整理しなおして何度でも主張しなければなりません。それは先ほど述べました。そしてこれからわれわれが望むことは、介護保険に支援費が吸収されるならば、それは使い勝手のよい制度であるべきだ、ということ以外にありません。必要な介助が得られるなら高齢者と高齢者でない人とを分ける必要はないのだ、としたら、次はサービスを行う負担を社会に求めること。介護保険的な「公的保険」は自己責任によるリスクへの備えではなしに、払える人は誰もが払うべきであり、受け取るべき人は誰もが受け取れるべきものとして機能させることです。
そういった意味で、みなさんが主張していく、その運動はしていく必要があると思っています。