ILP講演記録2007年11月17日  CIL生活塾  

岡田健司


  みなさん、改めまして、こんにちは。しばらくの時間は、私自身が自立をしてみて感じたこと/思ったことをお話し、その後みなさんと「障害者の介助」について考えてみようと思います。


【自立のキッカケについて】

  私が自立しようと決めたのは2004年の正月を過ぎたあたりの頃だったと思います。それまでは何をしていたかというと、何度にもわたる入院生活をはさんで保育園、小学校、中学校、高校、大学、それぞれ養護のつかない方の学校に通いました。私の障害は、先天性ミオパチー(筋原性)という障害名がついています。この障害は、乳幼児期から筋力低下がゆるやかに進行していくものですが、私の場合筋力低下はあるけども歩くことは可能で、走ることはできないけどもゆっくりなら階段にあがれます。比較的身辺自立はできるように見られがちですが、それでもよく転んだり、地面やイスから立上がったり、重いものを持ったりする場合には人の助けが常時必要でした。この「でした」という所がミソで、学校教育を受けていた頃、私は人の手を借りることにすごい嫌悪感を抱いていましたから、人から優しくされようものなら拒絶するということを繰り返していました。だからそれが普通で、あまり障害についての認識はもたなかったし、障害を持って生きるというよりは、障害を伏せて生きるということに重きを置いていたと思います。高校と大学は通信制でしたが、わざわざ東京の大学を選んで弁護士を目指し、夏の講座には一人で上京し、一ヶ月間の一人暮らしも経験しています。いまさらながら考えると、やはりいかに親の手を借りずに生きるかがテーマになっていたように思えます。そんな生活を、大学生活だけで8年間繰り返しましたから一人暮らしをしようと決めた時は、すでに28歳を迎えようとしていた訳です。しかし、大学のレポートの成績はある程度までは上がっても、就職しようにも弁護士ですからなかなかなれません。しかも、いっこうに親の手を借りない生活をしたいと思ったことが達成できないのですから、自分のやっていることに疑問が沸かない方が無理な話です。どうもやり方が違うらしいと、薄々気づく時期が迫っていました。


【自立をするとは?】

  障害を持って生きることは、この社会にあわせるしかない。これがこれまでの私の生き方でした。そこから導きだされる結論は、「がんばる」しかないということです。身体が動かないなら頭を動かす。でも、それは動かないものを動かそうとすることに近いのかもしれません。「がんばる」ことが「自分らしさ」を表していると感じていて、そうしなければ社会に置いてきぼりにされるし、自分の存在の意味もないんじゃないか、とつねに不安にさらされてきました。

  たしかにそうだと思います。そうやって社会は動いてきたし、人間も動いてきました。この社会には、人としての生き方があって、例えば「自立」一つとっても身体的な自立、経済的な自立、あるいは泣かない、弱音をはかない、寂しさは見せない、しんどいとは言わない。つらいとは言わない。そしてそれを言わせない、精神的自立。それをこなせることが人としての生き方として大事にされています。そして障害者はそれらができないかも知れない人としてみられていて、だからこそ「やろう」とする気持ち・「がんばろう」とする気持ちが尊ばれて、その姿が目に見える障害者はテレビで取り上げられたりする機会もあります。

  でも、私はどうしても違和感を持ってきました。なぜ「がんばる」ことは「良い」ことなのか、その理解が本当に正しいのかということ。身体的自立や経済的自立ができない障害者はいつまでがんばれば良いのか。それができるまでなのか。そんな答えは誰も教えてくれないし、でも、とりあえずできるようになろうとする障害者は一杯います。私もそうだったのです。だから、そうやって「自分らしく」あろうとすれば動かない身体は動かないままだったし、普通の頭はいつまでも賢くなれない頭のままでした。親元でいくら勉強しても勉強が親元を離れるキッカケにならなかったのは、社会が作った自立の考え方で私の自立を達成するにはあまりにも窮屈すぎたからです。

  とりあえず生きてみる、この社会のいうその通りに生きるだけだと「障害者にとっての自立」は中々めぐってこないと思います。

  人の手を借りて服を着ること、働けなくても年金や生活保護を収入とすること、そんな考え方と技法が私の自立には必要でした。いつでも自らの選んだ生活を地域社会の中で送れることは、自立のために欠かせないと思います。なおかつ、それが一人ひとりに任されていて、一人ひとりが選びとれる状況にあるかどうかが、自立のための第一歩になるのではないかと思います。


【技法をまなぶ】

  先ほど、2004年の正月をすぎたあたりで自立を決意したと言いました。それはちょうど2度目の大学での卒業論文が迫っていて、たしか「障害者の自立と教育の課題と展望」なんていう題材で資料集めをしていたときのことです。ある一冊の本と出合います。みなさんにも一度読んで欲しいと思います。その本は「生の技法−家と施設を出て暮らす障害者の社会学」というもので、障害者の自立にとって立ちはだかる問題が書かれてあり、その問題と向き合った障害者の歴史が書かれてあり、そうそうに解決できない問題を自らの課題にして生きてきた障害者の文化が書かれていました。

  障害者が親元や施設、病院からでて一人で暮らすといった場合、住宅・所得保障・介助という3つの要素が大きな課題としてあります。とくにこれまで、自分の障害に対して否定的な見方を余儀なくされてきた障害者にとっては、いま置かれている状況以外の生活を考える力が奪われています。そういった点で障害が重度なのに一人暮らしができるのかとか、人の手を借りて生活するのは良いのだろうかとか、そうした思いや悩みを抱えている人がたくさんいます。その際に、重い障害を持ちながら楽しく暮らす仲間がいることは、自立生活の準備として、これまでの生活が一変するほどの衝撃があるのです。

  私は、そんなことをやってる人たちに会ってみようと思いました。それから5ヶ月ほどして会える機会が巡ってきたのですが、その当時の私は、重度の障害を持つ人が住む家ってやっぱり車いす対応で段差もなく生活しやすい広々とした空間しかないんだろう、と考えていました。しかし、その人のお宅は民間のアパートで2DKでした。エレベータで玄関に向かうと、玄関には段差が、キッチンや風呂場には改造がほどこしてあるんだろうなと踏んでいたのですが、そのままの形で使われています。驚きでした。おかしな話ですが、これなら僕にも一人暮らしができると考えたものです。障害者でさえ、在宅や施設や病院とは違うところで生活する場合それなりの環境がいると思い込んでいるのですから、実際、障害者の生活を知らない人はもっと驚くことだろうと思うのです。今でも、この世の中では障害者を念頭に事が運ぶことは少ないです。まず何かを作るとき、社会の仕組みの基盤には位置づいていません。いまでは障害者だけじゃなく、いわゆる弱者と呼ばれる人たちはその仕組みに据えられてはいないのかもしれません。ただ、こう考えればいい訳です。この世の中にある仕組みを自分の好きなように変えていく、2DKのアパートを使い勝手の良いように変えていけばよい。それが僕にとってはこの社会で生きていけると実感した瞬間でした。言い換えれば、「障害を持って生きるための技術と方法」があるんだと言うことを学んだのです。彼らがそれをいきいきと実践していました。


【生活をしてみる】

  一人暮らしを始めたときは、住民票を移したり、生活保護の申請をしたり、電動車椅子の講習を受けたりと、ひっきりなしに役所と病院に行くことが多かったです。イメージとしてはゲームの主人公が剣とか盾とか防具を身につけて冒険に出るための準備をするという感じです。一人暮らしをしてもやることが見つからない、という心配をされるかも知れませんが、当面はやることが一杯ありますので大丈夫です。7ヶ月くらい前まで地元の自立生活センターで活動していましたが、そのきっかけは「生活保護の申請の手順」を聞きに行ったのがことの始まりで、まあそれから3年間そこで活動するのですが、怒涛の活動日和が待っていまして身も心も燃焼しまくります。みなさんご存知の自立支援法に反対する活動がちょうどあって、台風が接近する中、みんながみんな、槍が降ろうが雹が降ろうがひるまやりひょうず前進あるのみ、「そんな無茶な!」と思いましたが、東京での抗議行動は思い出の一つとして胸に熱く残っています。

  いろんな人にも出会いました。一人暮らしを始めた1年目は、私が生きてきた人生の中で一番出会った人の数が多い年になったのではないかと思います。まずはこれがしたかった。だから達成できました。出会った人の数だけ移動しました。たぶん生まれてから歩いた距離を軽く越えたと思います。意外にも電車の乗り方が完全に分かりませんでした。切符を買わず改札をすり抜けようとして止められたことがあって、介助者に「切符買うの忘れてた」なんて誤魔化しましたが内心ドキドキしていたのです。そういえば、親元での移動手段は車で、家と目的地のみの往復しかしていないことに思い至りました。歩いてみて思うのは、雑踏の中を行き来する人ゴミの中の一つまみになるのもいい、ということです。

  その他にも、ピザーラのピザを一人で食べれるとか、寝ないまま24時間テレビゲームをし続けられるとか、ドアを開けたままトイレをし放題とか、深夜におやつを食べて歯を磨かないで寝れるとか、こんなこと言ってれば私の人間的な器が知れてきますが、自分がしたいことをするという一番難しかったことができるという幸せは、何物にも変えがたいものなのでした。


【自立する前と後】

  人の手を借りて自分がしたいことをする、というのは、どうしても遠慮がちになることがあります。申し訳ないという思い、甘えちゃいけないという思いは、どんどん自分の気持ちを後回しにさせていきます。いま振り返れば、親元にいたとき私が歩んだ人生はどれほど自分で選びとったものと言えるのか、そんなことはあまり大切にしてこなかったと思います。

  親の教育方針も、私の中に根付いた人生観も、健常者社会の中で生きることは、それをやるかやらないか、やらないということは逃げることであり、立ち向かっていくことは素晴らしいことであり、自分ひとりでの努力を惜しまないことが大事で、他人と比較をしてみて劣っていないことが良いことだと看做されました。それらは、親の子どもに対する気持ちと片付けられがちですが、これはれっきとした障害者に対する偏見と抑圧の産物です。障害者をとりまく親の愛情は?愛か放任かという極端なものが多いです。それでも私の親は中立でした。素晴らしい考え方の持ち主でもあります。けれども、私に対する教育の中には誤った偏見による教育が行われています。親もまたこの社会に生きる圧倒的多数の中の一人で、社会に溢れる障害者への偏見と抑圧を受け継いでもいる。それが、私にとって親は、唯一の絶対的な存在ではないということを気づかせました。だから親には親の人生があっていいと考え、親亡き後「兄の面倒をみる」と、親の言いつけが呪文のように根付いている妹にも妹の人生があって良く、それと同じように私には私の人生があるのだという考え方になりました

  もっとも、そんなことは子どもの私には分からない。分からないけれども、分からないなりに分かろうとしていたところがあって、それは親や、それだけではなく学校の先生や友だちといった多くの思惑と期待を自覚しながら、私は精一杯生きてきたと思います。自立したあとの私は優しくなりました。介助者には厳しい人と揶揄されます。けれども、子どもの頃大人たちの思惑や期待の中から選びとった人生を精一杯生きた自分を認めてあげること、褒めてあげること、完璧ではなくても終わったということを知りました。そして私自身が選びとろうとする人生は私自身の手の中にあること。やるかやらないかは自分で決められるのだということ、もちろんやらないということは逃げることではなく自分を大切にすることだということ、人の手を借りてやった方がうまくいくなら目一杯借りるということ、を知りました。

  自立をしたあとの私が優しくなれたのは、何よりもまず自分のことを大切にしているからだと思います。自分に優しい人は他人にも優しいのです。


【さいごに】

  これまでの話の中で私は、障害を持って生きる技法があることを知り、それがそのまま障害を持って生きることへの肯定につながり、そうすることでしか生きられない自分に新たな生き方の提示をして見せました。その生き方では、自分で決定することも大事にされますが自分で決定しないことも大事にされます。その判断をする際に重要なのは、他人ではなく自分であることに変わりないですが、同じ障害を持った仲間の存在との関わりが、その判断をより明晰なものにします。「できる」か「できない」かは生きるために大事なものではなく、「がんばる」ことも過剰にうやまうことはされません。そしてそれらは自分だけに認められるものではなく、他者にも同じように認められているのだと理解されています。結局それが障害者本人と、親や兄弟との関係をまともな人間関係にしていくと考えられているからです。そういった流れで、私が自立をしてみて感じたこと/思ったことをお話してきました。以上です。