第33回DPI日本会議全国集会 in京都 分科会1「誰も取り残されない地域生活」2017年6月4日  ルビノ堀川

重度身体障害者の権利保障と生活保障-それらを考えればこの先はみえてくる

岡田健司


みなさんこんにちは。

  京都市の西大路松原のバス停から徒歩10分、阪急西院駅から歩いて10〜15分近くに事務所を構えています。自立生活センターアークスペクトラムの岡田健司です。今日は重度障害者の地域生活の実践のお話をしていきたいと思います。資料の方は51ページに目次のような資料がありまして、それにもとづいてお話をしていこうと思います。今からゆっくりお話をしていきたいので目次に合わせてお聞きいただければと思っています。

  1. 重度障害者の権利保障と生活保障はどのように獲得されているか?

  目次の最初の「重度障害者の権利保障と生活保障はどのように獲得されているか」についてお話していきたいと思います。まず「権利保障と生活保障の再考」ということでタイトルに入っていますが、言葉の意味を振り返っておきたいです。辞書はひも解いていませんが、私がおもう権利保障と生活保障っていったい何なのでしょうか。権利保障というのは権利条約がもとめていたのに「他の者と等しい生活ができるようにすること」、これが究極の権利保障のあり方と思っています。行きたいときにいくとか、住みたいところにすむとか、学びたいときにまなんで、働くときにはたらく。すべての人に保障されている権利を障害を持つ人の手に取り戻すこと。これが毎日の人間らしい生活に直結している。生活保障という言葉を考えたときに、毎日の人間らしい生活、暮らしを保障することだと思っています。そのために介助サービスが障害者の地域生活をおこなう上で存在する。私たち自立生活センターの活動のなかでも権利保障と生活保障は総称して権利擁護の活動の一つだと言われています。擁護という言葉を辞書で引いてみました。「危害、侵害を加えようとするものからかばいまもること」と書かれています。

  相談支援事業の始まりを振り返っておきたいと思います。相談支援事業における計画相談は2014年から段階的に作成が義務化されていました。新規でサービス利用する人たちのサービスプランを作ってサービスの利用がはじまります。サービスを使っていた人たちも利用計画を相談支援従事者に作ってもらったり、あるいはセルフで作ったりとすでにおこなわれています。相談支援事業の変遷を調べてみました。相談支援事業は最近はじまったわけではなくて、1990年代にさかのぼります。その当時の相談支援の名前が「心身障害児(者)地域療育保健施設事業」、いわゆるコーディネーター事業というものにさかのぼることができました。このコーディネーター事業を簡単にですがみておきたいと思います。前身は1984年に始まったそうです。名前もあまり変わりません。「心身障害児(者)施設地域療育事業」というのが相談支援のはじまりでした。当時の施設は地域で生活をする障害児(者)の生活を支援する機能を積極的に持っていくべきだと相談支援の考え方があったようです。コーディネーター事業のコーディネーターは今の相談支援従事者に該当すると思います。施設のコーディネーターが施設にいる障害者に対して相談支援をつうじて地域移行支援計画を作ったり、社会資源の改善開発をしたり、関係機関の連携調整をすることがはじまったんです。1995年の障害者プランによる3つの支援事業が始まっていきます。市町村の生活支援事業、障害児地域療育等支援事業、精神障害者地域生活支援事業です。聞き覚えのある言葉がここからでてくるかもしれません。当時障害者プランというのが作られまして、障害者の地域生活を考える兆しがありました。国際障害者年が1981年にあり、そのあとずっと続いていました。障害者の自立と社会参加をめざす、障害者の尊厳を考える、参加を理念としてのリハビリテーションやノーマライゼーションの考え方にもとづいての相談支援事業、というのがここぐらいからはじまってきます。2002年障害者ケアマネジメントがはじまってきまして、2005年は稀代の悪法といわれた自立支援法がはじまる年です。じつは自立支援法に相談支援事業があったんです。身体・知的・精神、三障害対応だと銘うったものがはじまったわけです。相談支援も一元化して相談をうけていくセンターをつくっていきました。2010年に自民党がたおれ民主党政権になりました。障害者自立支援法が廃止になりそのあと整備法が施行され、基幹相談支援センターを設置がめざされ、自立支援協議会を法定化していくようになりました。地域移行・地域定着支援、これが個別支給化されてきました。ふりかえってみたんですが、自立生活センターがこれまでやってきたことだと思ったんです。30年も40年もまえから障害者同士の結びつきによる相談支援をおこなっていました。1970年ごろに福祉の前進だとされていた入所施設でのサービスがちょうど終わろうとしていた時期です。その終わろうとしていた頃でさえ障害者は区別と管理と規制から障害者自身を擁護することを目指して、障害者同士が相談支援をお互いにし合う関係がすでにはじまっていました。1950年から1970年の間にこういうことが法制化されるまえにすでに起こっていました。

  二つの交渉と生活保障をふりかえってみたいです。私たちが任意の団体で京都市から指定を受けずに相談支援を仲間同士でやってきて、相談支援従事者として資格取得をして2年くらいおこなってきたことの話です。一つ目は、2014年当時25歳女性脳性まひの障害をもっている人、二つ目は2016年当時37歳で先天性ダンディーウォーカー症候群という障害をもっている人の例です。一つ目の女性の例は、出身地をでて京都で一人暮らしをしたい希望がありました。重度訪問介護事業所の不足と介護派遣事業所の派遣切り、親の高齢化と介護疲れで親子関係悪化という背景がありました。その方は京都が地元ではないので、地元と京都を行き来して自立生活のための準備を開始されました。最終的には2年近く地元と京都を行き来して、自立のためのステップを歩むことにしました。自立生活センターはそういうことをするんですね。体験室はご存じですか。親元と地域の間に通過地点として、自分たちのセンターが借りた建物で生活体験の経験をつむんです。それを自立生活体験室といいます。体験室での生活を何年、何ヶ月かしてもらい、そのなかで私たちがやっていく自立生活プログラムとかピア・カウンセリングとかを経験してもらいます。介助者の求人が必要です。地域生活をはじめるにあたっての介助者求人でも、自立生活センターの自立のステップではその人が求人をしてその人が面接をするんです。体験室での生活を一緒に考えた本人とかさねて検討した結果、介助必要度からすれば介助量は744時間相当だと私たちにはみえたんです。でも、京都市は脳性まひの区分6の人の定型の240時間だろうと提示されました。なぜかというと医療的ケアの重要度が低いことが一つでしたし、見守りの必要性が不明で必要ないじゃないか、夜間を抜いて死ぬことはないだろうというくらいだったと思います。夜間は訪問巡回型でというのは当然でした。訪看がきてとかいって240時間の日中だけですよ。私たち障害者からいってみれば、夜間のことは大事ですが、日中が大事と思ったようです。

  二つ目の経緯です。圏域に設けた相談支援事業所のスーパーバイザーという人がいるんです。相談支援従事者は今、スーパーバイザーからうけたまわって私たちはサービス利用計画を作成しなければいけないんですね。そのスーパーバイザーと市が忖度関係ができていたりする。高齢家族の家族介護も当然視していましたし、じつは次男も重度障害をもっていたんです。だから家族介護しろと。介護負担がし烈を極めた状態だったんです。市は日中はなんとかサービスを利用してもらって、夜間は訪問看護で訪問巡回型のサービスを使って、家族でも介護をしてもらうということをいっていたんです。日中デイサービスに通いながらも、予期せぬ体調不良に対応するためにも744時間の介護保障は必要じゃないかと私たちは思ったんです。ダンディーウォーカー症候群は身体障害もありますが、知的の障害もお持ちで、意思能力や行為能力の低下をサービス時間にどうやって反映させるか、どのような基準を用いていくかが課題としてありました。最終的にはサービス利用計画は身体のみで、知的障害については支給時間がまったく算定できない機能不全に“市町村”がなるので、交渉材料に使うのはやめました。やはり知的障害をお持ちの方が地域生活を進めていく上では、意思能力・行為能力をしっかりサポートすることが必要です。見守りも大事になってくる。見守りが支給決定の算定に入らないのは法の趣旨に反しますから、厚生労働省の通知にももとる、ありえない理解をしているわけです。知的・精神障害対象の関連項目は意思能力、行為能力をはかるのは十分にできないです。当事者にきいてみたら一発でわかるんですが。必要なときに必要な手助けをもとめることができない、生活保障がされているかの問題いぜんにその人の権利保障がされているかという問題がこの交渉をつうじてあったんじゃないかと思いました。必要なときに必要な手助けをもとめられないのは、危害・侵害を加えようとしていることに間違いはないです。今ある危機、死活問題はそこにあるという状態です。

  2. 重度障害者の権利保障と生活保障はどのように実現されているか?

  二つ目ですね。重度障害者の権利保障と生活保障はどのように位置づけされているかという話に移っていきます。運動体でもあり事業体でもあるというのは自立生活センターをおいてほかにないです。自立生活センターになるために要件がけっこうあるんです。たとえば運営する主体者の過半数が障害者であることがとても大事です。ですので代表者や事務局長など責任のある立場には障害者がたちます。ピア・カウンセリングも自立生活プログラムもやっている、介助派遣や相談を受けることもやっている、というような要件はいくつかあります。自立生活センターの存在意義は当事者性の有無です。当事者性の背景は社会的な機能障害、さっきもいった区別と隔離、管理と規制によって生きづらさを感じてきたかどうかですから、この当事者性があるかどうかというのが当事者団体のとても重要なことだと思っています。障害は社会にあると言われて久しいです。いま医療モデルとして障害は克服すべきと捉えている人はどれくらいいるのでしょうか。わたしはそもそも克服すべきものとは思っていなくて、障害は社会にあるから区別や隔離、管理や規制をするのも社会にあるものと思っています。個人に内在する機能障害は生命体にとっては障害です。それは認めましょう。このままだったらわたしは生きられないですから。けれども区別や隔離、管理、規制をするのは社会にある障害でしかないですから、それによって生きられないというのはおかしいでしょうということです。命の維持をすることもです。運動体であり事業体であるCILでは社会にある障害、一人ひとりの内にある障害(誤解や偏見、差別とかの意識)によって、障害者個人が危害を加えられたり侵害をされたりしないようにリーズナブルに主張をしていくことをやる所なんです。 リーズナブルに主張していくというのは、私たちはピア・カウンセリングとか自立生活プログラムの手法を身につけ実践をするのが目的なんです。そもそものことをいうと、社会にある障害から危害を加えられたり、侵害をされなかったら、生まれながらにエンパワーメントされていたら、私たちがやっているピア・カウンセリングや自立生活プログラムはもしかしたらしなくてもよいのではないかと思います。介助派遣事業もその典型だと思います。社会で人の手をかりて生きる社会資源が十分にあるなら、自立生活センターが介助派遣するかどうかはきめることができると思っていますが、その話はいまはしません。

  地域生活支援センターと派遣事業所であるというのは、ソーシャルワークをになう、社会資源のアコモデーションと社会資源の改善開発を進めるところです。本来的には自立生活センターとおなじく権利擁護や、利用者とともにリーズナブルに主張していく側の人たちです。派遣事業所の使命というのは生活保障に特化したサービスをおこなうところですから、その生活支援として社会資源として介助をきらさない、アコモデーションをかかしてはならないと思います。さきほどからリーズナブルに主張とかアコモデーションなんて横文字を使っていますが、辞書で調べてみるとこう書いています。リーズナブルというのは「理にかなっている」「道理がとおった」「筋道がとおった」「正当な」「公平な」だとか意味があります。アコモデーションは「順応」「適合」「調整」「和解」や「調停」とあります。リーズナブルなこと、アコモデーションなことというのをひっつけたら、わたしたちがふだん使っている合理的配慮なんじゃないかなと。合理的配慮という英語はないんです。リーズナブルとアコモデーションがセットになって合理的配慮と訳しているんです。リーズナブルな主張で権利保障をして、地域生活支援センターや派遣事業所が生活保障の便宜をおこなう。権利保障と生活保障をおこなうところが適合関係を深めていき、そして本人の権利行使、権利保障を実現していくことによって、私たちの身近な生活は成り立っているのではないかと思っています。でも実際はどうでしょうか。今CILのほとんどは介助派遣で生活保障の便宜をはかっています。CILの権利擁護の要であるリーズナブルな主張の手法をなかなか身につけない利用者が多くいることに一方で気付きます。たとえば地域生活支援センターの一部業務が相談支援事業者に機能が移りました。移ったとはいえ煩雑な実務過多な状態で利用者の社会資源を一緒にアコモデーションして、社会資源の改善開発はできているのでしょうか。派遣事業所では人手が足りないですから、事業の拡大によって人手が足りない状態を変えていこうというのをやっている。でも利用者を増やしたら、人手が足りない火の車状態がおこっています。とりあえず誰かを派遣しておかないといけない状態。なんなら人手不足を理由に派遣をきることだって考えないとならない。権利擁護をやっていた自立生活センターが一般の介助派遣事業所と遜色なく同じようなことをやっているのではないかと思っています。

  3. 当事者団体として担わされたニーズを担ったままでいたいか、その問題

  当事者団体として担わされたニーズをそのままになったままでいたいかという問題です。相談支援事業所でプランを作成して終わりにする人たちをみて、相談支援事業を事業としてしかみてないんじゃないかと、サービスありきで障害者をあてはめて、その人の生活をコントロールするんじゃないかと思います。障害者本人をみていないからサービス調整会議は行政、事業者、医療関係者が中心ですよ。ニーズは関係者のものであって本人のものじゃない。サービス提供するための要求が、事業者間の調整をするのが仕事ですから、複数の事業所が「介助いけません」となると、細切れに介助に行くという状況が起こっています。聞くと5、6社はいっていることはざらなんですね。重訪ですよ。どれだけ単発にしてくるのか。深夜の介助交代もあります。2時、3時なので寝てるんですがピンポーンと介助者がくるんです。びっくりします。

  介助派遣事業所、そこで経営する素人と介助だけする人と書いていますが、介助者になりたい人の物の見方、考え方も慎重に検討せずに人が足りないので採用する。猫の手もかりたい状態です。心を扱う仕事の人材育成がおろそかになっていないかと思います。働きすぎている人の心理状態がどうなっているのかも見過ごすことが多いです。障害者が社会生活から切り離されたなかで一人暮らしをはじめて、年相応の社会経験をおこなうものですから、社会生活から切り離されていない人からすれば、そこそこ素養を高めなくても介助できますよね。生活経験多いですから。だから高い報酬、算定を使う利用者を沢山囲んで、少人数の介助者で沢山派遣先にいかせることをやっていますよね。不特定多数の利用者のなかで一人ひとりの個別性も見えなくなっているんじゃないかとみえます。サービス業だったら満足度など聞きとったりしますけど、「やってあげる」という物の見方をなかなか拭えない。ちょっと「ああしてほしい」、「こうしてほしい」というと「え、なんで?」と結構なるんですね。そういう声の吸い上げもないから事業所内でのスキルアップの研修もやりません。

  それで当事者団体のとくに介助派遣はどうなんだろうかと自分で自分のことを見てみたんです。全身性介護人派遣事業をみなさんご存じですか。介護のいちばん最初の時期にさかのぼります。当時国は介護派遣なんて考えてなかったです。でも必要でした。だから「あなたたちがやらないなら、私たちがやる。口は出さずお金だけ渡してくれ」といって、自立生活センターが介助派遣をはじめたのがこの国の介助派遣のスタートです。そこから時代がたって、私たちがつくりあげた介助派遣システムと介助理念、介助心得ができました。365日24時間年末年始であろうが介助に入る。この社会の抑圧構造から生み出された「女性は介助をやって当然」というのを打破して、同性介助をめざしました。「呼吸器はピアスをつけているようなものだ」と医療的ケアが必要だろうが日常生活行為として介助をするのは当然としました。でも自立生活センターを見渡したら今人材不足でどこもこまった状態なんです。長時間の介助、365日介助保障、同性介助を掲げて派遣できるのは自立生活センターだけであると思いすぎた結果かもしれません。利用者の生活保障の運動で手いっぱいなのかもしれません。医療的ケアや支援付き意思決定など高度に専門性を有したり、人手が倍必要な状況を自ら作っていることがあるかもしれません。

  4. それらを考えたら、この後どうするのかを考えて行動する

  365日24時間正月であろうが年末であろうが障害者の介助派遣をやってきたシステムのサービス提供者になってはじめて分かったことがあるんです。やっぱり介助者を雇用するというのは一生その人とともにつきあっていく覚悟がないといけない。だからこそ私たちが作り上げた介助理念と介助心得を共有財産として持ち合う。これまで抑圧されてきた私たちだったけども、介助を使う側が抑圧構造をそのままにしておけないから、決意して同性介助をはじめました。それを一般の介助派遣事業所はそれができないのでしょうか。もしかして「できないと思っていませんか?」とぼくは自立生活センターにいる人たちに問いかけてみたいです。「できない」といわれたら、知的障害、精神障害をお持ちの方の地域移行はまったく進まないです。自立生活センターだけでは担えるものではないですから。社会基盤がないなかで地域移行をしようということになってしまうかもしれない。そんなことはできないんです。福祉ということばそのままに、だれにとってももたらされるしあわせを考えて、その価値観をかさねあわせて、共有してみんなでそれをめざすことが一致できれば実現することは可能だと思います。介助派遣事業で培ったわたしたちのノウハウを真っ先に社会化して、抱え込まずにいることが必要だと考えています。運動団体は運動するためにあるんですが、運動も時代によって変わってきています。いま社会にある障害、区別・隔離・管理・規制という脈々と続く障害の元凶を無くしていくにはやっぱり教育じゃないかと思います。そして施設を無くすことだと思います。教育と施設、わたしは一生かけてこれを変えていきたいと思っています。私たちは介助派遣事業所が介助派遣をできるように地域生活支援センターや相談支援事業所とともに本人中心のケアマネジメントをやっていくとか、社会資源の改善開発をやっていくとか、入所施設や病院からの地域移行やっていくとか、地域の自立支援協議会で地域づくりをめざすとか、そういったソーシャルワークの先頭にたって、ときに勉強しあって、はげましあって、悩みわかちあいながらみんなが幸せになれるようにあきらめないようにしていく。そんな先頭にたっている姿をみせていけるわたしたちでありたいし、今の時代の新しい運動なんじゃないかと思っています。今の人たちに伝えておきたいのですが、本来なら自立生活センターがやっていることや、自らの生活保障のために介助者集めをするなんてことなく生きられた時代だったかもしれません。でも「あなたが今していなくても、だれかがそれをしていて、それはもしかしたらあなたがやるべきことなのかもしれない」ということは知っておいてほしいと思います。ちょっとだけ先にうまれた先輩障害者たちはいっぱいいます。その人たちは運動家でもあり、魅力もあるとっても素晴らしい人たちなんだけども、本当に悩みながら一生懸命努力をして今を生きているんだと思っています。私は正直努力が足りないなと思っています。毎日自立生活運動のこれから考えるとき、つめ将棋をしていて毎回つんでいると思っています。自分のつめ将棋は自分でなんとかするしかないのですが、ソーシャルワーカーとして人生をまっとうしたいということを宣言しておわりにしたいと思います。



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